ストーリー

プロのダンサー・表現者になるまで

小中高校生時代

ジャッキー・チェンに憧れ小学4~6年生まで少林寺拳法を学ぶ。父の補助のもと、バク転・バク宙を習得。毎夜ふとんで練習に付き合ってくれた。地元・岐阜県の美濃加茂高校に進学後は体操部に所属。文化祭では即席パンクバンドでボーカルを担当するなど、それなりに青春を謳歌した。

ミュージカルデビュー

18歳で本格的にダンスを始める。ダンスの先生の推薦により、名古屋市文化振興事業団主催『アニーよ銃をとれ』に、ピエロ・インディアン・貴族役として人生初ミュージカル出演。この経験を機に、ダンサーや表現者としてプロになることを心に決める。

その後、上京。海外ダンサーのダンスレッスンが受けられる「ブロードウェイ・ダンス・センター(BDC)」に通い、ダンス漬けの日々を過ごす。TRF、内田有紀、マークパンサー、音楽プロデュース小室哲哉によるダンスミュージカル『月が地球にKISSをする』全17公演に出演。アルバイトをしながらの生活で「どうせバイトしながらダンスするなら、本場ニューヨークで生活してみたい。」という想いからN.Y行きを決意する。北九州のテーマパーク「スペースワールド」でレビューショーに出演し、留学費用を貯めた。

NY留学時代

21歳で単身渡米。2年半の間、「ニューヨークバレエアーツ」や「ブロードウェイ・ダンス・センター(BDC)」でバレエ、ジャズダンスを中心に学んでいたが、とあるクラブイベントで、初めてブレイクダンスバトルを目の当たりにし、そのサークルに足を踏み入れることができなかったことが悔しくてたまらず、ブレイクダンスの練習を始める。

(思い起こせば、この出来事が僕のダンスの第一の目覚めであったように思う。)

ヒップホップダンスカンパニー「Full Circle Productions」のKwikstepとAna ‘Rokafella’ Garcia が主催するブレイクダンス練習会 (Fazil’s Dance Studio/ファレッタスタジオ)にも毎週熱心に参加。現地で知り合った、横浜出身のB-boy キヨタカさん(横浜フロアーマスターズリーダー Hikaruさんの幼馴染み)に誘われ、バトルダンスクルー「Rising.sun.crew」のメンバーとして活動しつつも、真面目にバレエのレッスンにも通うという、その後の自分のオリジナルスタイルに繋がる、様々なダンスカルチャーを本場で体験した。

当時の僕は、ひとつのダンス(音楽)ジャンルにはまる訳ではなく、特にブレイクダンス、バレエに通ずる「骨」の動きが好きで、それらを学んだ後に「自分だけのダンスを踊りたい!」と密かに思い描いていた。

ダンサーとしてのストーリー

バックダンサーとして活躍

NY留学からの帰国後には、数々のライブコンサートに出演。少年隊ミュージカル、SMAPドームツアー、倖田來未全国ツアー、郷ひろみバックダンサー、石川さゆりリサイタルライブ、桑田佳祐横浜アリーナライブなど、バックダンサーが注目を集めはじめた時代を最先端で駆け抜けた。

六本木ショーパブ「FRIDAY」にて振付を初経験。のちに振付演出家として活動するきっかけとなる。

コンテンポラリーダンスの世界へ

ダンサーの辻本知彦さん(パプリカの振付師)と出会い、インプロビゼーション(即興)ダンスカンパニー「SUDBURY306」を結成。自由な身体表現ができるコンテンポラリーダンスの世界に、どっぷりとハマる。

(この時が僕のダンスの第二の目覚め。)

「ダンスヴィーナス」を主宰する武元賀寿子さん(日本モダンダンス界のパイオニア・江口隆哉の最後の弟子)と出会い、ダンスヴィーナスの作品に参加。東宝ミュージカル『エリザベート』に出演し、振付を担当されていた島崎徹さん(ローザンヌ国際バレエコンクールにおいて、1999年・2011年に審査員、2001年~2003年にはコンテンポンラリー課題曲の振付けを手がける)と出会う。当時ダンスの世界で自分が目指すべき存在を見いだせず、この世界から去ることも考えていたが、こんなにも誠実で正直な人達が世界レベルで成功する道があることを知り、やはりこのダンスでやっていくことを再び決意する。

2007年、初めてのソロ単独公演『素の形』を中野plan-Bで発表。

シルク・ドゥ・ソレイユ時代

ダンサーの辻本知彦さんに誘われ、シルク・ドゥ・ソレイユのオーディションに応募。見事2人で合格する。2008年~2009年の2年間、ラスベガスのルクソールホテルでのシルク・ドゥ・ソレイユ常設公演『Criss Angel Believe』に出演。Guriという役名でクリスタルボールを操るキャラクターを演じる。

アメリカのTV番組フォックス放送「アメリカン・ダンスアイドル(So you think you can dance)」にシルク・ドゥ・ソレイユのアクトとして出演。

この時期、世間の称賛とは裏腹に、ショービジネスで連日同じ演目を踊り続けることの退屈さを痛感する。

海外修行、ヨガとの出会い

退団後、シルク・ドゥ・ソレイユの本拠地でもあるモントリオールでダンスカンパニー「Pigeons International Theater Dance」のオーディションに合格。1年間、多くの作品に参加。モントリオール市内でソロ作品『golden time』、デュオ作品『without anyone’s being the wiser』を発表。

その後、ベルギーやベルリンにて、幾つかのコンテンポラリーダンスカンパニーのオーディションに出向くが、全て不採用となり、2011年1月1日に渡印。インドのケララ州ティルヴァナンタプラムにある「Sivananda Yoga Vedanta Dhanwantari Ashram」で、インド政府公認 シヴァナンダヨガ正式指導者資格を取得。現地ビーチでスカウトされ、インド首都デリーのヨガスタジオ「Sivananda Yoga Vedanta Dwarka Centre」でヨガ講師を務め、半年を過ごす。

自身のスタジオを設立

東日本大震災が起きた頃、インドから日本の様子を見て、故郷にダンスとヨガスタジオ設立することを決意。日本に帰国し、東京と岐阜を往復する生活がスタート。2011年、故郷岐阜県美濃加茂市にて「STUDIO SOUKO 450」を設立。

現在に至るまで、多方面で活動を展開

振付・演出・ソロ活動

東京と岐阜を往復しつつ、振付師としての活動を開始。2.5次元ミュージカル、ドラマ、ライブ公演、アーティストやアイドルのMVなどの振付を担当。

日本でのソロ活動を再開し、毎月の満月の夜に開催する単独ソロ公演『Tokyo Mangetsu(全7回)2012』を発表。

2016年、ソロダンスシリーズ『Shigeki Yamada solo dance “Kyun Kyun”』を開始する。

現代美術活動

現代美術ユニット「Chim↑Pom」のリーダー・卯城 竜太さんが主催する現代美術セミナー「天才ハイスクール!!!!」に2014年からの1年間通い、コンセプチュアルアートを学ぶ。岐阜を拠点に立ち上げた、~不特定の賛同者によるアートコレクティブ~『TEAM WARERA』が、第19回岡本太郎現代芸術賞2016に入選を果たす。

この頃から、ダンス(身体)とコンセプト(概念)を、跨ぐ表現法へと拡張。
それはまるで、N.Y時代にブレイクダンスとバレエを繋ぐダンスを模索した若かりし日のような感覚だった。

2017年7月28日~8月29日、名古屋市の「黄金4422BLD」 5階にて、公開美術制作展示&パフォーマンス『やまだしげき舞踊休憩所』を発表。

 

ダンサー(身体表現者)にとっての究極の作品とは、その人そのもの、その人物の生き方であり、その人が選択する瞬間の連続。

今も興味関心は尽きず、多分野でさまざまなアクションを起こしています。2020年に立ち上げたフラッシュモブ制作事業所「ハートアミーゴ」として日常に驚きと感動を与えるパフォーマンスを画策。リーフレット2000枚を完成した直後、コロナショックにより即時続行不能となる。

コロナショック以降、独自に開発した50音を身体で表現する「知育脳トレ健康体操あいうえおメソッド」の普及活動に尽力、福祉・教育の分野に足を踏み入れる。

この冒険はまだまだ続く!

~永久の未完成、これ完成である~
宮沢賢治【農民芸術概論綱要】より

やまだしげき


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